フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 笑いの歴史の中でのルネッサンス時代

 
   ルネッサンスの時代は、ヨーロッパの歴史において、中世から近代への橋渡しをなす時代とされている。続いて起こる宗教改革と並んで、この時代に近代社会の秩序となるものが形成されてくるという歴史認識は、今日揺るぎのないものとなっている。したがって、ルネッサンスの時代は、主として近代との連続性においてとらえられてきたのであった。

しかし同時に、ルネッサンスの時代は中世に直接続く時代として、中世文化が大成され、花開いた時期でもある。

これは特に文学的な創造の分野についていえる。ボッカチオ、ラブレー、チョーサー、セルバンテス、シェイクスピアといった天才たちは、千年にわたる中世の民衆文化をその身に体現し、笑いの宇宙とも言うべき壮大な世界を、文学という形で花咲かせた偉大な存在だった。彼らは近代の魁をなしたという側面以上に、中世文化を集大成したという位置づけにおいて捕らえることができるのである。

彼らの作品の本質をなしているのは、笑い、猥褻、肉体と物質、大げさな誇張といったものであり、聖と俗、秩序と非秩序、上位と下層の逆転と融合といったもの、つまり世界を、そのあらゆる層において取り込み、ありのままに受容するという態度である。世界へのこうした係わり方は、近代以降の人間が忘れ去ったものではあるが、中世においては民衆の文化の中に息づいていた。ルネッサンスの天才たちは、それを集大成し、壮大な形で作品に体現した。

ミハイル・バフチーンは中世・ルネッサンスの笑いと近代の笑いとの違いを、次のように総括している。(以下テキストは、川端香男里訳、せりか書房版を用いた)

「笑いは深い世界観的な意味を持つ。笑いは統一体としての世界、歴史、人間に関する真理の本質的形式である。それは世界に対する普遍的観点である。この観点は世界を別な面から見るが、厳粛な観点よりも本質をつく度合が少ないわけではない。」これに対して、17世紀以降の近代においては、「笑いは普遍的、世界的形式にはなりえない。笑いは社会生活の個人的なそして、特徴のある現象、否定的な領域のいくつかにのみ関係を持つ。歴史や、歴史を代表する人々は滑稽ではありえない。滑稽なものの領域は狭く特殊である。世界や人間についての本質的真理を、笑いの言葉によって語ってはならぬ。」

ルネッサンスの笑いは、中世の笑いの嫡子として、肯定的、創造的な意味を担っていた。世界についての第二の真実として普遍的なものであった。また同時に、笑いを通じて人々があらゆる恐怖に打ち勝ち、生きる力を再生させるという意味で、自由をもたらすものであった。

上記のルネッサンスの巨人たちの作品には、こうした意味合いでの笑いが満ち満ちている。中でもフランソア・ラブレーの作品は、笑いの歴史の中で頂上ともいえる世界を形作っている。

ラブレーは、笑いが人間の本質的な属性であることを、アリストテレスの説を引き合いに出して説明している。アリストテレスによれば、「乳児は生後40日たたなければ笑い始めない、つまり人間になった瞬間からちゃんと笑うのである」人間の本質は笑うことにあるというわけである。

ラブレーに凝縮されたルネッサンスの笑いを、わずか一世紀後の17世紀の人びとは理解できなくなっていた。

ラ・ブリュイエールは、ラブレーの作品の中での否定的側面として、「まず第一に性的無作法さ、糞尿譚、罵言、呪詛、二重の意味に取れるきわどい表現、低級なくすぐり」をあげているが、これらはほかならぬラブレーにおいては、民衆的な文化そのものであり、積極的、肯定的な要素だったのである。ラ・ブリュイエールの時代にあっては、無作法な表現はラブレーの時代とは全く別の意味合いを持つに至ったのであるから、ラ・ブリュイエールがこのように批判するのも、あながち不当なこととはいえないかもしれない。

また啓蒙思想家の中で比較的笑いに寛容であったヴォルテールにも、ラブレーの猥雑な笑いは理解しがたいものに映った。<ラブレーはその突飛で訳のわからない書物の中へ、これ以上無いような陽気さと、法外な無作法をぶちまけた。・・・この作品全部を理解し評価しようと頑張るのは、何人かの風変わりな趣味をお持ちの方々だけである。・・・これほどのエスプリを持った人が、それをこんな軽蔑すべきことにしか使わなかったことを人は残念に思う。彼は酔っ払った哲学者で、御酩酊のときしか物を書かなかった。>

こうした見方はその後ますます強まり、ラブレーには偉大なものと矮小なものが共存するとの評価が長く続くのである。もはや、中世・ルネッサンスの笑いが、歴史の中で正当に位置づけられることはなくなってしまったのである。

ただ、ロマン派のヴィクトル・ユーゴーのみは、ラブレーとシェイクスピアに見られるグロテスクな性格をありのままにとらえ、それを積極的に評価もした。ユーゴーは、「作品のグロテスクな性格は天才性の必然的な徴であると考えるのである。天才的な作家が単なる大作家と異なるところは、天才の全イメージ及び全体としての作品に激しい誇張、法外な極端、曖昧という特徴がある、ということである。」といっている。

フランソア・ラブレーの作品の意味は、ミハイル・バフチーンの研究が引き金になって、大きく見直されるようになった。それはまた、ラブレー研究を超えて、人類の歴史の意味の研究にもつながるものといえる。



   

ペーター・ブリューゲル「野外の結婚式の踊り」の一部



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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