フランス文学と詩の世界
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ラブレーのスカトロジー:糞尿は笑いの仕掛

 
フランソア・ラブレーの作品には、糞尿のイメージがいたるところにあふれている。ラブレーの作品を糞尿(スカトロジー)の文学とする見方も成り立ちうるほどである。

ラブレーにとって糞尿とは、人びとを開放的な気分にする陽気な物質である。それは上と下、聖なるものと矮小なもの、王と民衆との間にある垣根を取り払い、ゴタマゼすることによって笑いを呼び起こす。王も又民衆同様糞尿は垂れるものだし、淑女といえども例外ではないのだ。

カーニバル的な祝祭の笑いを追及したラブレーにとって、糞尿はまさに笑いの仕掛けの鍵ともなっていたのである。

近代の文化において、糞尿は人前から隠されるべきものであり、それに言及することは無作法のなかでも最も許しがたいものになってしまった。だがラブレーの生きたルネッサンスの時代にあっては、糞尿は毎日の生活のリズムの中で、人間が営むところの欠かせない生理現象の結果であったし、無視することなど考えられもしなかった。

糞尿は肉体から排出されたものではあるが、完全に無縁になったものではなく、肉体の面影をとどめているものである。また、肉体から分かれたという点では、生まれたばかりの子どもと共通するものでもある。だから、糞尿は人間にとってはなじみ深く、時には自分たちの肉体の一部のように扱われもした。

そうはいっても、糞尿はポジティブには受け取られない側面も有している。自分が生んだものとはいえ、いつまでも大事に保存されるべきものではなく、いづれは始末されるべきものであった。

ラブレーがとりあげたのは、糞尿のもつこのような両面価値的な性格だったのである。

まず、第一之書「ガルガンチュア物語」から、ラブレーのスカトロジーについてみていこう。第11章「ガルガンチュアの幼年時代」は、3歳から5歳までのガルガンチュアの毎日を次のように紹介している。(以下渡辺一夫訳、岩波文庫版より)

この時期のガルガンチュアは、その国の幼いこどもたちと同じように、「飲んだり・食べたり・眠ったり、食べたり・眠ったり・飲んだり、眠ったり・飲んだり・食べたりしていた。」そしてガルガンチュアは、「自分の靴におしっこをひっかけたり、肌着の中へうんこをしたり、袖で鼻をかんだり、スープの中へ洟を垂らしたり、ところかまわずに泥んこになって転げまわったり、上靴で酒を飲んでみたり、いつも籠の胴腹へ体を摺りつけたりしていた・・・お天道様めがけておしっこをしたり、雨を避けに水へ潜ったり・・・キャベツを食べたのにからし菜のうんこをしたり・・・ざんぎり頭でもつるつる坊主でもごっちゃにしたり、毎朝毎朝げろを吐いたりしていたのである」

ガルガンチュアの行動が延々と描写される中でも、排泄の部分が非常に大きい。排泄は、食べたり・飲んだり・眠ったりの子どもの一日の中でも、もっとも重要な部分を占めることは今日においても異ならない。ラブレーはそれを正面に持ち出すことで、これから先展開する大年代記を彩る、スカトロジーの世界を先取りしているといえる。

第13章では、ガルガンチュアが父親のグラングージェに向かって、尻を拭く方法を説明する部分がある。それは最も殿様らしい、最も素敵な、最も具合のよい、尻の拭き方なのである。

「或る時、腰元の誰かのビロードの小頭巾で拭いてみましたが、なかなかようございましたよ。何しろ、絹の柔らかさで、出口のところが、とてもとてもよい気持ちでした。

「また或る時には、同じ腰元の帽子を使ってみましたが、これもまた同じようでした。

「また或る時には、襟巻きでも拭きました。

「また或る時には、真青なシュスの頭巾耳当でもやってみましたが、でかでかとつけられていた糞いまいましい金モールのために、お尻をすっかりひんむかれてしまいましたよ。こんなものを作った金銀細工師と、こんなやつを付けていた腰元の直腸なんか、聖アントアーヌ熱でかっかと燃えちまうがいいです。

「この痛みも、スイス式に羽根飾りをたんまり付けた小姓の帽子で尻を拭きましたら、けろりと直りました。

「それから、草薮の後でうんこを垂れていますと、弥生猫を一匹見つけましたので、こいつで拭いてみましたところが、爪で、会陰辺をずっと引っかかれてしまいました。

「この傷は、翌日、「割目安息香」の匂いがつんつんする母上の手袋で拭きましたので、直ってしまいました。」

ここで、ガルガンチュアの尻を拭くために用いられているものは、頭巾、帽子、襟巻、耳当といった、頭や顔の周辺に用いられるものである。つまり普段は尻とは最も無縁な部分に使われているものを、ガルガンチュアは尻を拭くために用いている。ここに自然と笑いの生じる仕掛けがある。

ラブレーはこのように、スカトロジーを単なるグロテスク趣味で使っているのではなく、秩序のたがをはずすための道具だてとして使っている。

顔と尻を置き換えるイメージは、中世からルネッサンスにかけて民衆の想像力のなかにあったようで、ブリューゲルの絵にもそのようなイメージが出てくる。ルネッサンス期の文学にはまた、顔の変わりに尻に接吻するというものもあるようだ。

この部分に続いて、ガルガンチュアが作ったという詩が披露される。雪隠がうんこをする人たちに呼びかけている歌である。

  雲谷齋よ、
  びり之助よ、
  ぶう兵衛よ、
  糞まみ郎よ、
  そなたのうんこが
  ぽたぽたと
  わしらの上に
  まかれるわい。
  臭太郎よ、
  糞次郎よ、
  たれ三郎よ、
  聖アントアーヌ熱で焼かれてしまえ
  もし仮に
  みんなの穴が
  閉まっていれば
  尻は拭かずに退屈じゃ

陽気な物質うんこへの、陽気な呼びかけである。

第38章には、ガルガンチュアがサラダと一緒に6人の順礼たちを食べてしまう話が出てくる。巡礼たちは一旦はガルガンチュアの口の中に入ってしまうのであるが、工夫をこらしてやっとの思いで脱出する。すると、かれらの頭上にガルガンチュアが小便を垂れ、巡礼たちは危うく溺れかかる。これも、小便のもつ陽気な物質としての性格を利用した場面である。

ラブレーの作品にあっては、このように糞尿は親しみ深く描かれている。そこには暗さや敵意はない。陽気そのものなのである。

第二之書「パンタグリュエル物語」第27章には、パンタグリュエル一行が鬨の声をあげる場面がでてくるが、この中で、パンタグリュエルの屁から大勢の小人が生まれる愉快な場面がある。

「そこでパンタグリュエルはいった。
―さあ、皆の者、食い物のことであまり暇を取りすぎたぞ。日夜饗宴三昧の者どもが難しい武勲を立てることは、滅多に見られぬ。目指す影は旗の影、求むる煙は軍馬の煙、栄ある響きは甲冑の響きだけだぞ。
これを聞いてエピステモンはにやにやし始め、こう言った。
―目指すは厨房の影、求むるは肉団子の煙、食器の響きのみ、と。
これに対してパニュルジュが答えた。
―目指すは帳の影、求むるは乳房の煙、ふぐりの響きのみ、と。
そして立ち上がっておならを一発、ぴょんと飛び上がって口笛を吹き、大声あげて喜ばしげに叫んだ。
―パンタグリュエル王万々歳!
これを見てパンタグリュエルも同じようにしようとしたが、そのおならで大地は九里四方に亙って鳴動し、その臭い風のなかから、五万三千人の不恰好の小人が生まれ出たし、その透かし屁からは、それと同じ数の縮こまった小人女が生まれ出た・・・」

屁もまた糞尿と同じく、陽気な色彩を帯びており、命を生み出す源として描かれている。

糞にせよ、尿にせよ、屁にせよ、かつては人の身体の一部であり、外へと放り出された後にあっても、生暖かい感触のうちに身体の名残をとどめている。これらの物質は、今日に生きる現代人にあっては、なるべく早く目隠しをほどこし、人の目に触れぬようにと厄介扱いされるばかりであるが、ラブレーの時代にあっては、身体そのものと遜色をとらぬ重い扱いを受けていたのである。



   

ギュスターヴ・ドレ「パンタグリュエル」の挿絵



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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