フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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フランソア・ラブレーの世界 ルネサンスの精神


フランソア・ラブレー Francois Rabelais(1494-1553) は、フランスにおけるルネッサンスの精神を体現した人物であり、類希な作家にして医学博士でもあり、なによりも人間を深く探求した人であった。その代表作ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語は、前6巻からなり、人間でありながら人間らしくもない、卓越した親子の痛快無比な冒険を描いている。この物語があまりにも荒唐無稽に見えるので、フランソア・ラブレーは長い間、胡散臭いことを吹聴する変わった作家と見られていた。


しかしなぜ人々はフランソワ・ラブレーの作品世界を胡散臭いと感じたのだろうか。一言では言えないが、フランソワ・ラブレーの作品世界が、あまりにも人間臭く、人々はそこに自分自身の影を見るからではないか。フランソワ・ラブレーほど、人間の本質に通じていたものはなかったといってよく、その人間の本質を、たぐいまれな文学的な粉飾をもって、赤裸々に表した。その赤裸々に表現された人間性は、そのグロテスクさといい、スキャンダラスな性格といい、読者自身の姿をありのままに映し出したものであった。それに人々は驚愕し、その驚愕がフランソワ・ラブレーの作品世界を胡散臭いものに思わせたのではないか。

ではなぜフランソワ・ラブレーは、そうした赤裸々な人間観を抱きえたのであったか。それは彼自身の人間を観察するたぐいなき能力によるものであると同時に、彼の生きた時代環境のたまものでもあったろう。かれはまず医師として自己形成したのであり、したがって科学的な精神を身に着けていた。その科学的な精神を以て人間を見たとき、人間はありのままの姿で浮かび上がって見えたに違いない。そのありのままの人間の姿は、今日の欺瞞的な社会に住む我々には見えない。ところがそうした欺瞞性から自由であったフランソワ・ラブレーには見えたということだろう。

フランソワ・ラブレーの生きた時代は、世上ルネサンスという言葉で呼ばれている。この時代は、人間の見方が大きく転換した時代だった。それまで人間は、神の被造物として、自己の根拠を自己以外に持つとされた。ところが、ルネサンスの時代には、人間は神の制約から解放され、自分の根拠を自分自身において持つというふうに見られるようになった。つまり、人間が人間として、赤裸々な姿で観察されるようになったのである。

ロシアの思想家ミハイル・バフチーンはそんなラブレーの作品世界を丁寧に読み解き、そこに展開された壮大なルネッサンス精神をあぶりだした。それを一言でいうと、笑いの精神ということになる。笑いほど人間の本質を表現するものはないから、バフチーンは、人間のすぐれた観察者であるフランソワ・ラブレーをもっともよく理解した人だったといってよい。

当サイトでは、そのバフチーンの労作「フランソア・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化」に依拠しながら、ラブレーの世界を解読してみたい。


ミハイル・バフチーンのラブレー研究

笑いの歴史の中でのルネッサンス時代


カーニバルの祝祭空間:ガルガンチュアとパンタグリュエル

広場の罵言:ラブレーのエクリチュール

ラブレーのスカトロジー:糞尿は笑いの仕掛

ラブレーのセクソロジー:生殖の豊穣

ミクロコスモスとしての人間:ラブレーのコスモロジー

ヴィヨンの悪魔狂言:パンタグリュエル物語



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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