フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 アルチュール・ランボー:生涯と作品

アルチュール・ランボー Arthur Rimbaud (1854-1891) は、普仏戦争とパリコミューン前後のフランスに彗星のように現れ、光り輝くような作品を残して、あわただしく文学史の表舞台から去っていった。その文学的活動は数年にとどまり、しかも20歳を前にして筆を擱いたにかかわらず、作品群は独特の香りに満ち、後の詩人たちに巨大な影響を及ぼした。フランス文学史上、孤高の光を放った稀有の詩人である。

アルチュール・ランボーは、1854年8月北フランスの小都市シャルルヴィルに生まれた。父親は軍人であったが家庭を省みず、退役した後も家族のもとに帰ることがなかったので、アルチュール・ランボーは兄や妹とともに、厳格な母親に育てられた。この母親を、少年のアルチュールは絶えず煙たく思い、母親の忠告を「亡者の繰言」といって軽蔑していたようだ。

アルチュール・ランボーは少年時代から天才振りを発揮した。1870年の正月には、「孤児たちのお年玉」という詩が、雑誌ルヴュ・プル・トゥスに掲載されている。時にランボーはまだ15歳であった。その同じ月、ジョルジュ・イザンバールがランボーの通う中学校の修辞学の教員として赴任してくると、ランボーはイザンバールの指導を受けつつ、彼の蔵書の中からヴィクトル・ユーゴーの作品などを借り出して耽読した。4月には、「ルイ11世にあてたシャルル・ドルレアン大公の手紙」を製作しているが、これはフランソア・ヴィヨンの研究から生まれた早熟の作品であった。

1870年7月普仏戦争が勃発すると、フランスの北東部は戦争の最前線となり、シャルルヴィル周辺も戦火に巻き込まれるようになった。こんな雰囲気の中、地方都市での生活に飽き飽きしていたランボーは、最初の放浪の旅を試みる。8月の末、無線乗車で汽車に乗りパリにたどり着いたランボーは、無線乗車のほかにスパイの嫌疑までかけられ、マザスの監獄にぶちこまれてしまった。

9月早々、ルイ・ボナパルトはプロシャに降伏するが、これに対してパリに革命が起こり、共和制が宣言される。ようやくイザンバールの尽力で開放されたランボーは、イザンバールにしたがって共和国国防軍に志願したが、若いことを理由に入隊できなかった代わり、特別訓練を受けることができた。


9月末に一旦母親のもとに連れ戻されたランボーは、10月に再び出奔。徒歩でベルギーに向かった。この前後、ランボーは初期の詩22編を清書して、友人のポール・デムニーに託している。10月末には再び母親のもとに連れ戻されたが、戻ってきたシャルルヴィルは戦火に包まれており、中学校も機能を停止する有様だった。翌1871年の1月にはドイツ軍に占領されるまでに至った。

1871年2月、ランボーは3回目の出奔をする。この時は2週間ほどパリの市中を放浪して歩いた。

1871年3月18日、プロシャへの弱腰に反発した愛国的な民衆によって、パリにコミューンが樹立され、フランスは一種の内乱状態に陥った。このパリ・コミューンについては、あのカール・マルクスが熱意を以て語っている。後に世界の共産主義者や社会主義者たちの運動の原点ともなったものである。

パリ・コミューンはティエールの政府によって徹底的に弾圧され、5月28日に壊滅、コミューン派7万人が処刑された。この間、ランボーもパリに舞い戻り、コミューン派と行動をともにしたようである。ランボーのアナーキズムは、コミューン派とのかかわりの中で強まったものとも思われる。だが、ランボーは、コミューン派には苦い思いもしたようだ。彼の難解な作品「盗まれた心」は、男色による強姦を描いたものとされているが、おそらくそれは、ランボー自身の体験したいやな思い出に基づいている可能性がある。

パリ・コミューンの崩壊前夜、ランボーは自分の詩作に一つの道筋を見たと思い、それをイザンバールやデムニー宛の手紙の中で披露した。「見者の手紙」といわれるものである。見者とは、主観にとらわれず客観的に世界を描くことのできる者を意味した。その中でランボーは、ボードレールこそ真の詩人、ポール・ヴェルレーヌは見者だと書いた。

1871年8月、ランボーはポール・ヴェルレーヌにはじめての書簡を送った。ランボーの才能に感嘆したヴェルレーヌは旅費を送ってランボーをパリに招く。ランボーは、書き上げたばかりの「酔いどれ船」を持参してヴェルレーヌに合いにいった。以後、この二人による奇妙な生活が始まる。その様子は、アメリカ映画 Total Eclipse に描かれている通りである。

ランボーの傍若無人振りはヴェルレーヌ夫人マチルドをはじめ、ヴェルレーヌの周辺から猛烈な反発を受け、彼らは世間から孤立した。

1872年、ランボーとヴェルレーヌはロンドンで共同生活を始めるが、やがて破局が訪れた。1873年の7月、ランボーがほのめかした別離の言葉に激昂したヴェルレーヌがランボーを拳銃で撃った事件がきっかけで、二人は分かれることになる。その際ランボーの取り下げ願いにかかわらず、ヴェルレーヌは2年間の懲役判決を受けた。

この事件のあと、ランボーはシャルルヴィルに戻り、そこで「地獄の一季節」を書き上げた。ヴェルレーヌとの共同生活を総括した作品といわれるものだ。

ランボーは「地獄の一季節」の最後の一節で、文学との決別を宣言していたが、彼の文学活動はここで終わりとはならず、最後の作品として「イリュミナション」を書くこととなる。

1874年、ランボーは友人のジェルマン・ヌーヴォーとともにロンドンに舞い戻り、そこで「イリュミナション」を書き上げた。ランボーは1875年に、出獄してきたヴェルレーヌと会ったが、もはや二人の未来は交差することがなかった。ランボーは完全に文学から手を引き、実業の世界に入りつつあったのである。

ランボーは1876年にオランダの兵士としてジャヴァに行ったのを皮切りに、キプロスでの生活を経て、1884年以後はエチオピアで貿易商として生活する。

だが、ランボーは右ひざに癌腫を患い、それがもとで1891年マルセーユの病院で右足の切断手術を受けた。術後ランボーはアフリカへ戻ることを強く願ったが、船の中で症状が悪化、急ぎマルセーユの病院に戻ったものの、いくばくもせずして死んだ。37歳であった。






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