フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 ポール・ヴェルレーヌ:生涯と作品


ポール・ヴェルレーヌ Paul Verlaine (1844-1896) は、19世紀末のフランスを代表する詩人たちの一人である。この時代のフランスの詩人たちにおおむね共通する特徴として、デカダンという言葉が使われるが、ヴェルレーヌはその言葉に最もふさわしい人物だったといえる。

トリスタン・コルビエール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメといった詩人たちが、ボードレールの巨大な影響を受けながら、退廃的な雰囲気に満ちた作風を展開した。それを世紀末文学という言い方もある。



ヴェルレーヌ自身は、自分を含めた同時代の作家たちを、「呪われた詩人たち」という表題でくくったこともあった。だが、ジャン・モレアスの著作「サンボリスト宣言」が1886年に出ると、ヴェルレーヌを含めたフランス世紀末の詩人たちは、サンボリスト=象徴派の概念でくくられるようになった。それはボードレールに始まり、ポール・ヴァレリーやアルベール・サマンまでをも含む、広範な運動に対して与えられた名となった。

サンボリストたちの中で、ポール・ヴェルレーヌの占める位置は格別なものである。かれはランボーとの関係で知られるように、性格的な破綻者であり、世の中の道徳とは生まれつき縁のない人物であったが、決して長くはない生涯の晩年においては、カトリックに帰依して精神的な詩を書こうともした。だがそれはあまり成功したとはいえない。かれの真髄は、処女詩集「サチュルニアン詩集」に見られるような、甘い感傷と音楽的な言葉遣いにある。

ポール・ヴェルレーヌは北東フランスの小都市メッスに生まれた。父親ニコラ・オーギュストは軍人で、メッス駐屯の工兵部隊に所属していた。ポールが生まれたときすでに46歳になっており、一人息子を溺愛した。この父親に、ポールは生涯愛着を覚え、彼が21歳のときに父親が死んだときには、精神錯乱状態に陥ったほどだ。他方、母親については両義的な感情を持っていたようで、度々母親に暴力を振るっては、散々ひどい目にあわせている。

ポール・ヴェルレーヌが7歳のとき、父親は依願退役して、一家はパリに出た。そこでポールは寄宿学校をへてリセ・ボナパルトに学ぶ。ポールは寄宿舎での生活を嫌がり、父親は息子を慰めるために、毎日お菓子を持参して訪ねたという。そのうち、ヴェルレーヌは寄宿舎の下級生に対して恋愛感情を抱くようになった。彼の生涯を彩るゲイへの傾斜がこの時期に始まるのである。

詩作への関心も、寄宿舎時代に養われたようだ。14歳のときに「死」と題した処女作をヴィクトル・ユーゴーに贈っている。リセ時代にはボードレールに影響された詩を多く作ったらしい。

18歳のときバカロレアに合格、父親の勧めに従いパリ大学で法律を学び始めた。しかしすぐに学業を放擲し、スーロ街の安酒場にいりびたるようになった。ポールの少年時代、一家には母方の従姉で、ポールより10歳年上のエリーザという娘がいたが、彼はこの女性に深い愛を抱くに至った。彼女への満たされぬ思いが、やがて処女詩集「サチュルニアン詩集」へと結晶するのである。

大学をやめたヴェルレーヌは、1864年、20歳のときにパリ市役所に就職した。役所づとめは楽だったようで、朝遅く出勤して夕方早く退庁できたために、ヴェルレーヌは同じような年頃の詩人の卵たちと遊びまわっては議論を戦わした。友人の一人にリカールというものがいたが、その家に多くの詩人たちが集まってきた。その中には、アナトール・フランス、テオドル・ド・バンヴィル、ヴィリエ・ド・リラダンらの顔もあった。後にヴェルレーヌはこの連中を「醜いが気の良い男たち」と名付けた。

1866年、ヴェルレーヌは処女詩集「サチュルニアン詩集」を出版した。これはデュジャルダン婦人の負担による自費出版ということになっている。婦人とはヴェルレーヌの初恋の人エリーザである。だが、エリーザはこの出版の翌年、産後の病気で死んだ。それ以来、ヴェルレーヌの過度の飲酒癖が始まったとされる。

1867年、ヴェルレーヌはシャルル・シヴリーと仲良くなり、彼を通じてマチルド・モーテと出会うとともに、また共和派とつきあうようになった。

1868年、わずか6篇からなる小詩集「女の友達」が、風紀紊乱のかどで、リールの裁判所によって破棄された。これはレズビアンの愛を歌ったものだ。

1869年の2月、ヴェルレーヌは「艶なる宴」を出版した。この時期のヴェルレーヌは飲酒と放蕩とですさんだ生活をしていたようだ。親戚から見合い結婚を勧められたりしている。だが6月にマチルド・モーテと初めて出会ったのがきっかけでたちまち恋に陥り、しつこく求婚するうち、暮近くに婚約が成立した。彼らは翌1870年の8月正式に結婚する。

1870年6月、「よき歌」を出版。これはマチルドとの恋を歌ったものだとされるが、ヴェルレーヌの詩集の中では、何となく色気に乏しい。この年、普仏戦争が勃発。九月にはナポレオン三世がプロシャに降伏、その直後パリに共和政体が成立した。ティエールを中心にした共和政体は、プロシャとの戦いを続けたが、やがてはそのプロシャの軍事力を借りて、パリ・コミューンを弾圧するに至る。

パリ・コミューンは、ティエール・ヴェルサイユ政権のプロシャへの屈辱的降伏をきっかけに、共和制運動の延長として始まったものだ。1871年3月18日に大規模な反乱が始まり、その後5月28日の血の弾圧にいたるまで、パリを政治的に制圧した。

ヴェルレーヌはパリ市役所の同僚たちとともに、コミューンの運動に参加した。彼の役割は、ヴェルサイユ派の宣伝に対して反駁を加えるというものだったらしい。

コミューンが弾圧され、仲間たちが次々と殺されるのを見たヴェルレーヌは、恐ろしさのあまり、ファンブーに身を隠した。友人のシヴリーが逮捕投獄されたと聞いたときにはパニックに陥ったという。

そんなヴェルレーヌを、ルコント・ド・リールらは変節者だといって陰口をたたいた。

だがヴェルレーヌは間もなくパリに戻れたようだ。シヴリーなどに比べれば、毒にも薬にもならぬ小物だとみなされたのかもしれない。「醜いが気の良い男たち」の集まりも再開された。そんな彼のもとに、1871年8月の末、アルチュール・ランボーからの一通の手紙が届いた。そこから二人の呪われた詩人たちの運命的な出会いが始まるのである。

ランボーの手紙に同封されていた詩を読んだヴェルレーヌは、その天才に驚愕した。すぐ返事の手紙を返し、旅費を与えてランボーをパリに呼び寄せた。ランボーはまだ17歳にもならぬ少年であったが、背が高く、瞳は憂いに満ち、何とも言われぬ色気があった。そんなランボーにヴェルレーヌはたちまちとりこになってしまったのである。

ヴェルレーヌとランボーのヴァガボンドな共同生活は、1873年の7月まで続いた。二人は手を取り合ってさまざまな土地を放浪して歩いた。その間妻のマチルドは夫に愛想をつかして離婚する決意を固め、ヴェルレーヌの友人たちはランボーの粗暴な振舞にうんざりして離れていった。

そして運命の日、1873年7月10日がやってきた。この日に先立ち二人はロンドンからブリュッセルへと来ていたのだが、それはマチルダとよりを戻したいというヴェルレーヌの意向によるものだったらしい。ヴェルレーヌはよりを戻せなければ自殺するといって、自分とマチルドの母親たちを愕かしていた。ヴェルレーヌの母親は驚いて、二人が宿泊するホテルまでやってきていた。

結局ヴェルレーヌはあきらめて、ロンドンに戻るつもりになった。ところが、ヴェルレーヌとの関係にあき始めていたらしいランボーは、単身パリへ行くと言い出した。逆上したヴェルレーヌは、泥酔した挙句にランボーに向け、拳銃の弾丸二発を発射した。そのうちの一発がランボーの左手首に食い入った。

この事件のためにヴェルレーヌは取調べを受けた。官憲はヴェルレーヌに対して異様な感覚をいだいたらしく、鑑識調書には、その身体に男色の痕跡があると記載された。要するに変質者としてのレッテルを貼られたのだろう。そんな痕跡は医学的に証明できるものではないからだ。

ランボーはヴェルレーヌを擁護したらしいが、ヴェルレーヌは懲役2年の実刑判決を受けた。

ヴェルレーヌはモンスの監獄に収監された。収監中にヴェルレーヌの詩集「言葉なき恋歌」が出版された。ランボーとの共同生活から生まれた詩の数々を収めたものである。

収監中、ヴェルレーヌは回心を体験してカトリックに帰依した。その回心の心情がやがて、ヴェルレーヌ最高の詩集といわれる「叡智」として実を結ぶのである。

1875年2月、出獄したヴェルレーヌはシュトゥットガルトにいたランボーを訪ね、カトリックへの信仰を勧めた。だがランボーは相手にせず、しばらくぶりにあったのだからといって、へべれけになるまで飲み騒いだ。

ヴェルレーヌはランボーに代わる同性愛の対象を求めた。勤務していたノートル・ダム中学校の生徒リュシアン・レティノアを可愛がり、やがて共同生活に入ったのである。だがリュシアンは1883年に腸チフスで死んだ。

晩年のヴェルレーヌの生活はすさんだものだったようだ。母親は、生きている間は最後まで息子の面倒を見続けたが、1882年に疲れきって死んだ。母親がヴェルレーヌのために残してやった財産は、マチルドによって差し押さえられた。息子への養育費を支払わないという理由からだった。

母親が死んだ年、ヴェルレーヌは梅毒の診断を受けた。それ以来、死ぬまでの10年間、ヴェルレーヌは闘病生活に明け暮れた。「呪われた詩人たち」を出版したり、いくつかの詩集を作ったりしたが、かつての創造性は見るべくもなかった。それでも、ヴェルレーヌを崇拝する詩人たちは、絶え間なく彼の部屋を訪れたということである。

ヴェルレーヌが死の前年に書いた自伝「懺悔録」は、ランボーに出会う以前の日々について回想したものである。その中でヴェルレーヌはエリーザへの愛や、母親に対する悔悟の気持をもっぱら描いている。彼の回想に価する時間とは、人生の前半で止まってしまったかのようなのだ。






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