フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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  フランソア・ヴィヨン :生涯と作品


フランソア・ヴィヨン “Francois Villon;1431-1463?”は、ジャンヌ・ダルクがルーアンで火炙りにされた年に、パリで生まれた。フランスはまだ中世の世界を脱しておらず、国土も完全には統一されていなかった。こんなフランスにあって、フランソア・ヴィヨンは無頼と放浪の短い人生を送った。その作品は詩人の人生を映し出して、荒々しい妖気を放つ。闇を突き抜けた閃光のようでもある。

フランソア・ヴィヨンの出自についてはあまり詳しいことはわかっていない。本名はヴィヨンではなく、モンコルビエあるいはデ・ロージュであったとする説もある。父親はヴィヨンが子どもの頃に死んだらしい。12歳の頃、叔父のギヨーム・ド・ヴィヨンの世話でパリ大学に入った。ヴィヨンの名は、この叔父からとったらしい。

フランソア・ヴィヨンは、1449年、18歳でパリ大学の学士号をとり、1452年、21歳で修士号をとった。順調にいけば大学教授の道を歩めたはずなのに、ヴィヨンには堅苦しい生活が似合わなかったようだ。当時パリ大学に集まっていた学生たちの中には無頼漢が多く含まれていたことがわかっているが、ヴィヨンもそうした無頼漢と交わるようになったらしいのである。

卒業後、フランソア・ヴィヨンの消息が歴史上に明らかになるのは、1455年のある不名誉な出来事を通じてである。この年の6月、ヴィヨンは傷害致死事件の犯人となるのである。男女の友人たちとサン・ジャック通りを歩いていた際、通りがかった別のグループと争論になり、相手側の一員だったシェルモアという司祭を刺したり殴ったりし、ついにシェルモアは死んだ。ヴィヨンは逃げたが捕らえられ、パリ追放の刑を受けたのである。この刑は、1456年のシャルル7世の恩赦によって取り消されたが、フランソア・ヴィヨンはこの事件以来、まともな職業に付くことができなくなり、生涯放浪の生活を送るようになった。

1456年、フランソア・ヴィヨンは2度目のトラブルを起こす。最初のトラブルは女が原因だったようだが、2度目も女が原因だった。その女の名はカトリーヌ・ヴォーセルといった。だがこのトラブルでは、ヴィヨンは殴られっぱなしで、いいところがなかったようだ。そのため、ヴィヨンは恥を恐れて、パリから逐電せざるを得なくなり、アンジェーに身を潜めることにした。そこで司祭をしている叔父のつてを頼ったのである。

パリを離れるに先立ち、フランソア・ヴィヨンは一冊の小詩集を作った。今日「形見分け」”Petit Testament” として知られる作品である。この詩集の中で、ヴィヨンはひどい目に会った女に呪いの言葉を浴びせかけ、自分は不名誉を避けるために去るのだといっている。

詩集は40の八行詩からなっている。パリを去るにあたり、フランソア・ヴィヨンはこれまで世話になった友人知人たちに形見を贈ろうというという名目で、いちいち友人たちの名を上げては、それらに贈るべきもののリストを示している。文字通りに受け取ることはできないが、ヴィヨンのそれまでの歩みを伺わせてもくれる作品である。

1456年のクリスマスの夜に、コレージュ・ド・ナヴァールに盗賊が押し入り、金貨500枚を盗む事件がおきた。翌年、ギー・タバリーというものの通告によって、この事件はパリ大学の学生窃盗団によるものと判明した。更にその一年後(1458)、タバリーは窃盗団の首領がフランソア・ヴィヨンだったと申し立てた。この密告により、ヴィヨンは再度追放刑を受けるのである。

1456年以降のフランソア・ヴィヨンは、窃盗団の一員となって、各地を放浪していたらしい。そうかと思えば、王侯貴族との交わりもあったようで、1457年には、オルレアン公シャルルの館ブロア城に滞在していたことがわかっている。

1461年の夏には、フランソア・ヴィヨンはマン・シュル・ロアールの監獄に入れられていた。どんな犯罪であるかはわかっていないが、おそらく窃盗であったろう。この年の10月に行われた、ルイ11世の戴冠記念恩赦によって釈放された。

1461年には、フランソア・ヴィヨンは代表作となった「遺言書」 “Grand Testament” を書いている。

1462年には、サンブノアの修道院に監禁された。またこの年、シャトレの監獄にもぶち込まれた。コレージュ・ド・ナヴァールの事件を蒸し返されたようである。ここはすぐに釈放されたが、ヴィヨンはまたもや路上でひと騒ぎ起こす。

この騒ぎがどのようなものであったか明らかではないが、フランソア・ヴィヨンは逮捕されて、一時は絞首刑の判決を受けた。この時に、吊るされることを覚悟したヴィヨンの作ったバラードは、彼の最高傑作となった。

翌1463年の1月、刑は減じられ、追放刑ですむこととなった。だが、この年以降、フランソア・ヴィヨンという名の男は杳として行方をくらまし、ついに歴史の舞台に出ることがなかったのである。

もし、フランソア・ヴィヨンがその後も長く生きていたのなら、まったく足跡を残さないとは思えないから、あるいは原判決とおりに吊るされてしまったのではないかとの憶測もある。筆者のようなものには、よくわかるところではない。

   

フランソア・ヴィヨンの最後の作品「吊るされ人のバラード」については、先稿の中で取り上げたが、ここでは、同じ時期に作られた四行詩 “Quatrain” を紹介しよう。


  我が名はヴィヨン 名は実の重さを測ると申す
  パリはポントワーズの生まれだが
  天秤に紐で吊るされたら
  首が臀の重さを測るだろう

  Je suis Francois, dont il me poise,
  Ne de Paris empres Pontoise,
  Et de la corde d'une toise
  Saura mon col que mon cul poise.






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