フランス文学と詩の世界 |
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ギヨーム・アポリネールの生涯と作品 |
ギヨーム・アポリネール Guillaume Apollinaire (1880-1918) は、20世紀初頭のフランスにおける、ほとんどあらゆる前衛芸術に係わりを持った。今日では詩人としての名声が確立しているが、彼はむしろ美術批評家として出発したのであり、ピカソやブラックのキュビズム、キリコらのフュチュリズム、そしてオルフィズムやシュルレアリズムなどを次々と世に紹介したことで知られた。 詩人としては、象徴派以来の伝統的な詩法に、奔放な創造力をからませ、現代詩につながる独自の詩を作った。またセミポルノ的な作品や、不条理劇なども作り、忘れられた巨人マルキ・ド・サドを復活させたりした。色々な意味で、時代を画する芸術家であった。 アポリネールは本名をギレルムス・アポリナリス・コストロヴィツキー Guillelmus Apollinaris de Kostrowitzky といったが、自分の出生のことについては、公にしたことがなかった。一時期ロシアの亡命貴族を詐称していたこともあった。母親アンジェリーカはポーランド人であり、ローマにおいて、ギヨームを庶子として生んだのである。父親はスイス系イタリア人のフランチェスコ・フルージであると推測されている。 ギヨームは活発な母親によって育てられ、モナコとニースで主にフランスの文化について教育を受けた。20歳でパリに出てくるや、短い銀行員生活を経て、様々な雑誌に寄稿を始めた。また自らも、 Festin d’Esope やLa Revue といった雑誌を主宰したりした。 20世紀初頭のパリには世界中から画家の卵たちが集まってきていた。アポリネールは彼らと交際を広げ、その理論的な指導者となった。主な友人には、パブロ・ピカソ、アンドレ・ドラン、劇作家アルフレッド・ジャリ、画家にして詩人のマリー・ローランサンなどがあった。ローランサンとは一時期恋人の関係にもあった。 1911年にはピカソやブラックのために、アンデパンダン展にキュビズムのためのデモンストレーションを企画した。その前後ルーヴル美術館からモナリザが盗まれる事件が起きたが、外国生まれの変わった芸術家と見られていたアポリネールは窃盗団の一員の嫌疑を受け、サンテ刑務所に一週間収監された。このときにはピカソも取調べを受けている。 1913年詩集「アルコール」を発表するや、アポリネールは一躍大詩人の名声を得た。それは青年時代に書かれた詩をまとめたもので、街頭の恋やサンテ刑務所への収監などを歌っていた。 1913年には優れた美術評論「キュビズムの画家たち」を発表した。そのなかでアポリネールは、「芸術は自然の模倣ではない。それは感覚に与えられたものを再現するのではなく、芸術家の内面にあるものを表すのだ。芸術家は自分の心によって現実を超越するのだ。」と主張した。 アポリネールは数人の女性との間にラヴ・ロマンスを持った。もっとも有名なのはマリー・ローランサンとの恋だが、その後、ルーズ・コロニー、マドレーヌ・パジェ、ジャクリーヌ・コルブらと次々に恋をした。彼の詩集にはこうした女性たちとの愛の思い出が多く語られている。 第一次世界大戦が勃発すると、アポリネールはフランスのために戦うことを希望し、フランスの市民権を取得した上で、フランス軍に従事した。そして1816年に前線において頭に銃弾を浴びて負傷した。彼にとっては、モナリザ事件で汚された名誉を回復する出来事だったといえる。アポリネールには戦争を遺棄するようなところはなく、むしろそれを楽しんでいた形跡さえある。 1917年、アポリネールは前衛的な舞台芸術「テレジアのおっぱい」を発表し、自らそれをシュルレアリズム劇だと命名した。それ以後、シュルレアリズムが流行するようになるが、アポリネール自身は、1918年にヨーロッパ中で流行したスペイン風邪に倒れ、あっけなく死んでしまったのである。 |
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