フランス文学と詩の世界 | |
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シャルル・ボードレールの生涯と作品 |
シャルル・ボードレール (Charles Baudelaire) は、19世紀フランス文学を代表する詩人たるに留まらない。その影響は19世紀後半以降のフランス文学を超えて、世界中に及んだ。とりわけ19世紀末の世界の詩人たちをひきつけたデカダンスの文学はことごとく、ボードレールの落とし子だったといってよい。 20世紀にはいっても、ボードレールの影響はいっそう力を発揮した。彼の作品を彩る退廃への嗜好が、殺戮に明け暮れた時代の雰囲気にマッチしたためだ。ボードレールは特異な現象ではない。世界が堕落して人間が腐敗するとき、その死臭の中からボードレールの物憂き声が聞こえてくる。 ボードレールを巡っては、いいたいことが山ほどある。筆者は高校時代にボードレールの詩集「悪の華」に接して以来その魅力のとりこになり、日本語に訳された全集をむさぼり読んだほか、それでは飽き足らずに原文で読んでみたいと思い、独学でフランス語を勉強したほどだ。 ボードレールについて折々に感じたことは、そのうちおいおい文章にしていきたいと思っている。ここではとりあえず、彼の生き方に敬意を称して、その生涯を簡単にたどってみたい。 ボードレールは1821年にパリで生まれた。父親のジョゼフ・フランソアは裕福な公務員であったが、ボードレールが生まれたときは62歳の高齢で、息子が5歳のときに亡くなった。母親のカロリーヌはその翌年、陸軍少佐ジャック・オーピックと再婚する。 ボードレールは実の父親に関しては殆ど人間的な感情は抱いていなかったようだ。再婚した母親に関しては生涯複雑な感情を持っていたらしい。「悪の華」の冒頭部を飾る「祝福」という詩では、母親にことよせて女の妖しい性を描き出している。一方義父となったオーピックに対しては生涯敵意を抱き続けたようだ。1848年に2月革命が勃発すると、ボードレールは叛徒側に与して、「オーピック将軍を打ち殺せ」と叫んでいる。 ボードレールは少年時代、義父オーピックの勤務地に従いまずリヨンの王立中学に学び、続いてパリのリセ・ルイ・ル・グランに学んだ。18歳のとき、つまらぬ悪戯がもとでリセを退学処分になるが、バカロレアには一発で合格、法律学校に進んだ。だが少年の頃から放恣な性格であった彼は学業には関心を示さず、放蕩生活に明け暮れた。そのころユダヤ人娼婦のサラ・ルシェットと知り合い、恐らくこの女から梅毒をうつされている。 20歳のとき、ボードレールの散財振りを心配した義父は、修行のためにとボードレールをインド行きの船に乗せた。だがボードレールは航路途中で他の船に乗って引き返しフランスに戻った。その直後成年に達したことで実父の巨額の遺産を相続し、それを元手に遊蕩三昧の生活を送るようになる。しかしそれもつかの間、散財を心配した義父によって法定後見人をつけられるようになり、以後は後見人のもとで莫大な借金を支払い続けるようになった。 ボードレールは、混血女ジャンヌ・デュヴァルと同棲するようになり、彼女から詩作上のインスピレーションを得た。彼がジャンヌと出会ったのは、インドから舞い戻った直後であったらしい。 ボードレールが世間に知られるきっかけとなったのは、1845年と1846年の美術サロンを回顧した評論によってだった。またその頃ボードレールはエドガー・アラン・ポーの作品を知るに及び、以後20年をかけてポーの作品をフランス語に翻訳している。ボードレールは少年時代に英語を身につけていたようなのだ。 詩人としてのボードレールの名声を高めた詩集「悪の華」は1857年、ボードレールが36歳のときにはじめて出版された。ボードレールが詩を書き始めたのは二十台初期のことで、「悪の華」に収められている「アホウドリ」という詩はインドから戻る船の中で書かれたという。詩集の刊行を意識し始めるのは24歳のときである。そのころ「レスボスの女たち」という題名で詩集の出版を予告したりしているが、実際には30台半ばまで延期された。 初版「悪の華」は風俗をびん乱させる詩が多く含まれているという理由で出版停止の処分にあった。そのためボードレールは1861年に改めて再販の「悪の華」を出している。 ボードレールに詩作上のインスピレーションをもたらしたジャンヌ・デュヴァルとは30歳の頃わだかまりが生じるようになった。それに代わってボードレールノ心をとらえたのはサバティエ夫人であった。しかし彼女との間はプラトニックなものにとどまった。ボードレールは不毛の愛を満たそうとするように、マリー・ドーブランに接近したが、これも実を結ばなかった。 ボードレールは女性と安定した関係を築くのは苦手だったようだ。ジャンヌ・デュヴァルはボードレールが37歳の年に卒中で倒れている。 40歳を前にして、ボードレールにはすでに晩年がやってきた。若い頃にかかった梅毒に加え、過度の飲酒とアヘンの嗜好が著しく健康を蝕んだのである。アヘンの体験からは、「人工の天国」 Les Paradis Artifichiels という優れた作品を生んでいる。だが40をわずかに超えるという年にして、創作力は衰えざるを得なかった。そんななかで散文による詩を書き続けたが、生前に出版することはかなわず、死後の翌々年1869年に出版された。 1861年にパトロンのプーレ・マラシが破産したこともあり、ボードレールの経済状態は行き詰った。そのため自殺を考えたほどだ。 1864年(死の3年前)ボードレールは転機を求めてベルギーに移住した。しかしベルギーはボードレールの気に入らなかった。ボードレールは「哀れなベルギー」と題する作品の中で、ベルギーのことを散々に毒づいている。 1867年ボードレールは失意のうちに死んだ。散文詩「パリの憂鬱」をはじめ多くの作品が死後に出版された。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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