フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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マリオン・コティヤールのピアフ伝


エディット・ピアフ Edith Piaf (1915-1963) といえばシャンソンの女王といわれ、20世紀のシャンソン界を象徴する存在だ。その伝記を題材にしたフランス映画が上映されると聞き、大のピアフ・ファンである筆者は早速見に行った。

映画は、少女時代のエディット・ピアフ、マルセル・セルダンとの恋、そして病気に蝕まれた晩年にスポットライトをあて、死に行くピアフが時折過去を思い出してフラッシュバックするという構成をとっていた。

エディット・ピアフが病気で倒れたのは1959年、44歳のときであった。普通の感覚ではまだ女ざかりの年頃というべきだが、薬物中毒で身体はぼろぼろになり、70を過ぎた老嬢のようだったといわれる。そんなピアフを主演のマリオン・コティヤール Marion Cotillard が心憎く演じていた。

ピアフ在命中の彼女の映像と比較して、コティヤールは当人と見まがうほどよく似ていた。ピアフの雰囲気を良く伝えていたといえる。映画の中でふんだんに盛り込まれたピアフの歌は、コティヤールの声だったと思うのだが、それがまるでピアフの声と違わなかったのである。  

少女時代の陰惨な生活ぶりを描いたところは圧巻だといえるだろう。エディット・ピアフはパリの下町で大道芸人の子として生まれ、母親に捨てられたために、父親の母が経営する売春宿に預けられた。ここでエディットは3歳から5歳までの間失明していたとされ、映画もその様子を描いていたが、それは余りにも過酷な現実を見たくなかったからかもしれない。

だがエディットは売春婦たちにも心の優しさがあることを知り、彼女らの愛に見守られながら、ついに目が開く。映画はその場面を感動的に描き出していた。

後年のエディット・ピアフには他者への気配りや暖かい人間性があったという。それは少女時代に体験した娼婦たちの愛が、彼女を突き動かし、人間的な感情を育んだのだといえよう。少なくとも映画からは、そのように読み取れたのである。

映画はさらに、路上で歌っているところを興行師のル・プレーに見出され、歌手としてデビューするところから、順調に階段を上っていくさまを追い、その過程でプロボクサー・セルダンとの恋を描いていた。

エディットにピアフという芸名を与えたのは、ル・プレーであった。「すずめ」という意味である。エディットは身長142cmと、フランス女の中でも小柄なほうだったから、そんな言葉が似合っている。

一方、戦時中の政治的な活動や、戦後イヴ・モンタンやジルベール・ベコーを世に送り出した逸話には触れていない。話が拡散することを防ぎ、エディットの生き方を、ある一面に集約したかったからだろう。

エディット・ピアフが揺るぎのない大歌手として、フランスはもとより世界中に愛されるようになるのは戦後のことである。「バラ色の人生」をはじめとする数々の歌が聞くものをひきつけたのは勿論であるが、戦時中彼女がレジスタンスのために尽力したことも、彼女に対する見方に大きな影響を及ぼしたのである。そんな生き方が、一人の人間としても多くの人をひきつけた。

映画では、晩年のエディットはよぼよぼの姿に描かれている。若い頃からの荒れた生活と、交通事故がもとでモルヒネを多用するようになったことが、彼女の身体の老化を早めたともいう。だが、映像に残された晩年のショーの光景を見る限りでは、たしかに老けてはいるが、よぼよぼの印象は受けない。実際彼女は死んだ年まで歌い続けているのである。

エディット・ピアフが死んでペール・ラシェーズ墓地に葬られたとき、数万の人々が哀悼のために集まったという。カトリック教会が、彼女の生き方がキリストの教えに反するという理由で、ミサを拒んだにもかかわらずである。ピアフがいかに人びとに愛されていたかを物語るエピソードである。

エディット・ピアフは様々な意味で、時代を映す鏡のような存在だった。






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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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