フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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ステファヌ・マラルメの生涯と作品


ステファヌ・マラルメ Stephane Mallarme (1842-1898) は、ポール・ヴェルレーヌやアルチュール・ランボーと並んでフランスの象徴主義(サンボリズム)を代表する詩人である。しかし同じく象徴主義の名を冠せられても、マラルメの作品は他の誰にも似ることのない、独特の雰囲気をもっている。言語のシンタックスや意味にとらわれず、言葉の持つ音楽性と形態を自由に展開させたその作風は、歴史的にも先例をみないものである。だから彼は真の意味で、孤高の詩人というに相応しい。

マラルメの詩は、他の言語への翻訳が極度に難しいといわれている。英語をはじめ西欧圏の言語相互でも、そうだというのだから、まして日本語に訳すことは至難の技である。鈴木信太郎以下何人かの日本人がマラルメの詩を日本語に翻訳しているが、それらを読んでまともに意味を理解でき、まして詩の雰囲気を感得できる読者は殆どいないのではないか。堀口大学のような翻訳の名手でさえも、マラルメの詩に関しては、まともな日本語に移しきれていない。

マラルメのこうした韜晦さはどこに由来するのだろうか。

まず、マラルメの詩的イメージの奔放さがある。マラルメは詩にテーマを付与していない。だからそこには、外界の現象や、内心の感情、あるいは思想といったものを表出しようという意図は見られない。アルチュール・ランボーでさえ、激しい言葉の行間からは、彼が何をいいたいのか、その意図の輪郭が伝わってくる。酔いどれ船のように、抽象度の高い作品でさえ、一種の語りの進行のようなものがある。それに対して、マラルメの詩の多くには、そのような内実が何もないのだ。あるのは単なる言葉のつながりといったようなものだけなのである。

マラルメの言葉のつながりは、意味の表出作用としての言語のシンタックスをまったく考慮していない。互いの言葉を結びつけるのは、無論意味によるつながりの場合もあるが、むしろ音のつながりのほうに重点が置かれている。ある音がそれに類似した別の音を引き寄せる、こうしたリニアーな言葉の流れと並んで、ある言葉には、複数の意味を連想させる作用を持たされる。ヤコブソンのいう隠喩のイマジネーション作用が最大限に利用されているのである。

かようなわけでマラルメの詩は、母国語を同じくする人々にも難解だといわれる。まして言語体系を全く異にする日本人にとって、翻訳不能に近い断絶がある。

マラルメの生涯は、比較的淡々として変化に乏しいものだった。父親も祖父も公務員をしており、マラルメも公務員になることを期待されたが、彼の学業は言語を除いては芳しいものではなかったから、公務員試験に合格するのはむつかしかった。少年時代にはヴィクトル・ユーゴーの詩を愛読していたようだ。ボードレールの「悪の華」に接したのは19歳のときだった。

20歳でサンスのリセを卒業したマラルメは、英語の教師になることをめざす。そこで親の反対を押し切ってロンドンにわたり、英語の訓練をした。これには恋人で後にマラルメ婦人になるマリー・ジェラールも同伴した。

1864年、22歳のときマラルメはトゥルノンのリセの英語教師になった。その頃最初の本格的な詩 L’Azur を書いている。その後、ブザンソン、アヴィニョンのリセを歴任し、1971年の秋以降はパリのコンドルセ中学校の英語教師を勤めた。英語教師としての生活は1893年まで続けるが、高い収入は得られず、質素な生活に甘んじて生きた。

代表作である「牧神の午後」を書いたのは1865年である。(出版は1876年)だがマラルメは20代の半ばにひどい神経衰弱にかかり、1867年から1873年にかけて不毛の時期を過ごした。

パリに落ち着いて、生活と気持ちに余裕が出来た頃から、マラルメは作品を発表するようになる。最初はエドガー・ポーの翻訳が中心であったが、次第に詩や評論も発表するようになった。そうした活動を通じて、詩人や芸術家たちとの親交を結んでいったようだ。

マラルメが最初の詩集を発表したのは1887年、45歳のときである。しかも限定47部の私家版だった。詩集の出版がこんなに遅れたのは、マラルメの詩に対するこだわりがあった。彼は、一つの詩に高度な完成を求める余り、年月をかけていくども書き換えた。そのため作品の完成にきわめて時間がかかり、またその数もそう多くはなかったのである。

晩年のマラルメは文壇に大きな影響を与える存在になった。彼のローマ街のアパートは知的なサロンと化し、多くの文学者が出入りした。その中には、アンドレ・ジード、ポール・ヴァレリー、マルセル・プルーストといったフランスの一流の知性のほか、ウィリアム・バトラー・イェーツ、ライナー・マリア・リルケ、シュテファン・ツヴァイクらの姿もあった。このサロンは毎週火曜日に開かれたことから、「火曜日の会」 Les Mardistes と呼ばれた。

1897年の作品 Un coup de des jamais n'abolira le hasard (賽の一擲は偶然を排さない)は大きな反響を起こした。この詩は、内容はともかく視覚的にも型破りだったからである。マラルメは詩句をただ整然と並べるのではなく、紙の上に自由に配列したのである。それまで詩の音楽性を追求してきたマラルメは、ここでは視覚の印象をも詩の一部として取り込んだのだった。

マラルメの前衛的な実験は、20世紀の芸術家たちに大きな影響を与えた。シュール・レアリズムやダダイズムの潮流は、マラルメから生まれたといってもよい。

またマラルメの詩の音楽性は、音楽家たちをもひきつけた。すでにマラルメの生前に、クロード・ドビュッシーが「牧神の午後」にインスピレーションを受けて、同名の曲を書いているが、死後にも、モーリス・ラヴェル、ダリウス・ミヨー、ピエール・ブーレといった音楽家たちがマラルメの詩を題材にした曲を作っている。






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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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