フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 ミハイル・バフチーンのラブレー研究

 
ミハイル・バフチーン (Михаил Михайлович Бахти?н 1895-1975) の名は、日本の知的文化(そんなものがあるとすればだが)の中では、存在しないも同然だが、20世紀前半におけるヨーロッパの知的文化の中で、ひときわ大きな光芒を放ったユニークな思想家である。

バフチーンが生前ほとんど関心を浴びなかったのは、彼がソ連体制下の社会主義世界に生き、国内的にのびのびと活動できなかったことに加え、その業績が国外に紹介される機会に乏しかったからだ。晩年、クリステーヴァらによって、主要な著作が広く紹介されるにいたって、そのパースペクティブの広さが、ヨーロッパの人々を驚かせた。

バフチーンの方法論はロシア・フォルマリズムの流れの中で解釈されているが、彼は単に世界を記号や意味の体系として、形式的にとらえるやり方には留まらなかった。ドストエフスキー論における「ポリフォニー」の概念や、ラブレー論における「グロテスク・リアリズム」の概念などは、なるほど記号論的な意味合いを帯びてはいるが、彼がこれらの概念を使って抉り出したものは、人間の生き生きとした生命のあり方そのものだった。

とかく、中世やルネッサンス期までの人間社会の見方については、これまで近代的な知的枠組みのフィルターを通して、表面的にしかとらえられてこなかったものを、バフチーンはその本来の姿において、全体的に捕らえなおしたといってよい。

バフチーン自身が言うとおり、フランソア・ラブレーは。ロシアにおいてのみならず、当のフランスを始めとした西洋文化圏においても、長らく正当に評価されてきたとはいえなかった。ガルガンチュアやパンタグリュエルの作品世界に充満する、笑い、猥褻、お祭騒ぎ、あらゆる下卑たものへの愛着が、近代的な知的枠組みにとっては、異質で、周縁的なものに映ってきたのである。

ミハイル・バフチーンの著作「フランソア・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」は、「グロテスク・リアリズム」という新しい概念を駆使してラブレーの作品を読み解き、そこに中世・ルネッサンスの時期を生きた人間たちの、近代社会の人間とは異なる、生き生きとした全体像を抉り出したものである。(以下テキストには、川端香男里訳、せりか書房版を用いた)

ラブレーの作品を特徴付けているのは、笑いであり、猥褻であり、糞便趣味であり、不真面目なこじつけであり、それらすべてを大げさな誇張によって一緒くたにしてしまう、猥雑な世界である。ラブレーのこんな世界を、近代人たちはアモルファスといって、敬して遠ざかる態度をとってきた。

このようなラブレーの世界を、バフチーンは、ヨーロッパ中世の1000年の歴史と関連付けることによってあぶりだそうとする。ラブレーの作品は孤立した現象ではなく、民衆的な源泉を背景にしているのであり、「ラブレーのイメージは千年の民衆文化の中でくつろいだ姿を見せるであろう」というのである。

この民衆文化の本質は笑いにあった(笑う民衆)。バフチーンは中世の民衆の笑いの文化が、ラブレーの中で融合したのだとみた。この笑いには、
・ カーニバルや広場における様々な笑い(愚者の祭、ロバの祭など)
・ 滑稽文学の伝統(エラスムスの痴愚神礼賛に結実する)
・ ののしりや呪いなどの罵詈雑言の伝統
などの流れがあり、中世の人びとの生活を彩っていた。というより、中世人は笑いの中で暮らしていたとするのである。

この笑いは、現代人が思い浮かべるような、揶揄や風刺といったものではない。現代人にとっては、笑う人と笑われる対象とは分裂しているが、中世人はそのような分裂を知らない。すべての人々がいっせいに笑うのだ。笑うことによって、世界を相対化し、高貴なものを格下げし、卑猥なものを神聖化し、死せるものを生き返らせる。こうすることによって、世界を絶えず再生させてゆく。笑いの中で、人びとは世界や共同体と一体化するのである。

この笑いは、物質や肉体の下層と離ちがたく結びついている。ここにスカトロジーやセクソロジーといった猥雑なものの活躍する意味がある。ラブレーがもっとも生き生きと描くのは、こうした部分なのである。

バフチーンはそれを、「グロテスク・リアリズム」と名付けた。「グロテスク・リアリズムの主要な特質は、格下げ、下落であって、高位のもの、精神的、理想的、抽象的なものをすべて物質的、肉体的次元へと移行させることである。・・・下落は新たな誕生のために肉の墓を掘るのである。・・・下落、格下げは両面価値的であって否定すると同時に肯定する。・・・下層部分は生み出す大地であり、胎内である。下層は常に孕むものである。」

我々現代人にとって猥雑や混沌に映るラブレーの世界は、こうした中世の民衆文化と深くつながっている。ラブレーの作品の背後にあるこうした歴史的な背景を理解すれば、「デカメロン」、「カンタベリー物語」そしてセルバンテスの「ドン・キホーテ」の世界も、同じ土壌から生まれてきたことが見えてくるだろう。

我々現代人にとって、ラブレー的な世界が理解不能になってしまったのは、世界の近代化の波の中で、共同体的な秩序の解体と、個々人の孤立という現象が介在しているからなのだと、バフチーンはいう。

現代においては、笑いは共同体的な色彩を失い、人々は互いを許しあって、腹から徹底的に、しかもいっせいに笑うことができなくなった。笑いは個人的な出来事に化してしまったのだ。

一時期、ロマン派の流れの中で、グロテスクなものへの関心が高まったことがあったが、ロマン派のグロテスクは、中世・ルネッサンス期の広場的・全民衆的なものとは異なり、室内的なものになってしまっていた。つまり、共同体との関わりを失った、個人の趣味、それも倒錯した趣味に置き換わってしまったのだ。

ミハイル・バフチーンがラブレーの掘り起こしを通じて何を目指していたのかは、別の問題だろう。バフチーンはラブレーの研究に先立ち、ドストエフスキーの研究に没頭していたが、その結果彼がたどり着いたのは、文学を個人の意識といった狭い始点から見るのではなく、集団全体のうねりのような相互作用の層において捕らえるということだった。ソ連体制下に組み込まれたとはいえ、20世紀のロシアは、西欧諸国以上に中世的な伝統を引きずっていたのであろう。



   
ギュスターヴ・ドレ「ガルガンチュアの食事)


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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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