フランス文学と詩の世界 | |
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ポール・ヴァレリーの生涯と作品 |
ポール・ヴァレリー Paul Valery (1871-1945) は、大詩人であるとともに20世紀のフランスを代表する偉大な知性として認められている。その活動は、詩や文学のほか、音楽をはじめとした多彩な芸術分野、歴史、哲学、数学など様々な領域に渡っており、生涯に渡って知の巨人というに相応しい活動振りを見せた。 また晩年においては、ナチス占領下のヴィシー政権に対して暗黙の抵抗を続けながら、野蛮から文明を守ろうとする姿勢を貫いた。そんなところが、ドイツのトーマス・マンとならんで、ポール・ヴァレリーの偉大さを人々に印象付けもした。彼はフランスが連合国によって解放されるのを見届けて死んだ。 ポール・ヴァレリーはコルシカ人の父とジェノア生まれの母との間に南仏地中海沿いの村セートに生まれた。モンペリエで育ち、そこの大学で法律を学び、卒業後パリに出て、軍務省に勤めた。その頃ステファヌ・マラルメに出会ったのだが、これが彼の一生に強い影響を及ぼした。マラルメから受けたことについては、後年の文章「わたしは時折マラルメに語った」の中で述べている。 ヴァレリーは詩人としては、わずか百にも満たない作品を発表しただけである。だがそれらはいずれも珠玉のような輝きを持ち、とりわけ「若きパルク」 Jeune Parque は20世紀にフランス語で書かれた最高の作品だと評価されている。 ヴァレリーの詩作は、長い中断を挟んで二つの時期に分かれている。20代の頃はマラルメの強い影響を受けて、マラルメの作風に似た詩を書いた。その数はそう多くはない。1898年にマラルメが死ぬと、ヴァレリーは詩作から遠ざかり、また生活上においても、組織勤めをやめ、アヴァンス通信社 Agence Havas の総裁エドゥアール・ルベイの私設秘書となった。彼は1920年にルベイが死ぬまでその職にあったのだった。 詩作活動の後半は、1917年に発表した「若きパルク」に始まる。そしてルベイが死んで私設秘書を辞めると、盛んな文筆活動を始めた。1920年には初期の詩を集めた「旧詩帖」を、1922年には「魅惑」を発表した。彼が出版した詩集はこの3つだけである。 ヴァレリー自身は自分を単なる詩人だとは思っていなかった。彼の関心の対象は、先ほども述べたように、知のあらゆる領域に渡っていたのである。その様々な領域を逍遥した結果を、ヴァレリーは「ヴァリエテ」5巻にまとめて発表した。 またヴァレリーは、毎日の思索の歩みを日誌のようなノートの形で残した。それは後に「カイェ」という題名で出版されたが、そこには人間の関心が赴きうる知のあらゆる領域が、テーマとなっているのである。 ヴァレリーの思索の枠組は今日「構成主義」 Constructivism と規定されることがある。またその詩風はマラルメの影響を受けたサンボリストの最後の一人とされることもある。だがヴァレリーの詩風にはそうした枠には収まらない、独特の風格がある。 ヴァレリーの詩風はマラルメに似た部分もあるが、どちらかといえば端正で形式を重んじる。フランス語の音楽性を最大限に引き出そうとするところは、いうまでもなくマラルメゆずりである。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007
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