フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 鈴村和成「ランボー、砂漠を行く」




筆者にとってのアルチュール・ランボーは、少年詩人としてのランボーだった。彼がまだ十代の若さで詩を作ることをやめ、忽然と姿をくらました後のことについては、殆ど何も知らなかった。三十七歳になった彼が、マルセーユの病院で片足を切断され、それから間もなく死んだということは知っていたが、彼が詩を捨ててから命を失うまでの間に、どんな生き方をしていたかは、ほとんど知らなかったのだ。

鈴村和成著「ランボー、砂漠を行く」(岩波書店)は、筆者が知らなかったランボーについて、実に多くのことを教えてくれる書物である。この書物は、ランボーが詩を捨てて放浪生活を始めて以来、マルセーユの病院で足を切断されるまでの、この稀有の詩人の足取りを追いかける。そして、そこから浮かび上がるランボーと言う人間の実像がどのようなものだったのか、それを探り当てようとする試みである。

詩人としてのランボーは、この世の中と折り合いをつけることができず、世の中から遁走しようとする意思を絶えず抱いていたが、詩を放棄した後も、ついに世の中と折り合いをつけることができなかった。彼の一生はだから、この世の中から己の身を遠ざけるかの如くに、たえず歩き回っていた生涯だった。そして歩くのにくたびれ果ててついに足を失った。足を失って歩くことができなくなったランボーは、この世の中から去るしか道はなかった。この書物はどうも、そんなことをいいたいようなのだ。

詩を放棄した後のランボーは、ヨーロッパ各地を転々とした後に、二十五歳の時にアラビア半島のアデンにたどりついた。そこである商人と偶然知り合いになったランボーは、その商人が東アフリカのハラルに開設した貿易拠点の支店長になったりした。また、エチオピアの一部族の王であった男へ武器を売りつけるためのキャラバンを組んだりした。このキャラバンは、相棒が死んだことなどもありうまくいかなかったが、ランボーはそうした生き方が気に入ったようで、以来死ぬまでアフリカを根城として生きた。だから、ランボーの後半生は、砂漠を歩き続けた毎日だったのである。著者がこの本の題名を「ランボー、砂漠を行く」とした所以である。

後半生におけるランボーも、かなりの量の手紙を書いた。それらの手紙の名宛人は、母親や取引相手である。それらの手紙を丁寧に読み解くことによって、詩を放棄した後のランボーがどのような考えを抱いて、どのような生き方をしていたのか、著者は推理を働かせるのである。ランボーの手紙には、ぶっきらぼうなものが多いと著者は言うが、それは情報の量が限られているという意味あいだ。その限られた情報から、一人の人間の全体像を浮かび上がらせるのは、並大抵のことではない。それには途方もない根気と労力とが必要だ。

著者は、その根気と労力とを惜しみなくつぎ込んで、ランボーと言う人間の全体像に迫ろうとしている。そんなことは、普通の人間にはとてもできることではない。著者にそれができたのは、ランボーに対する著者の途方もない思い入れの賜物だろう。この本を読むと、著者がいかにランボーにいかれているか、ひしひしと伝わってくるのである。

そんなわけで筆者は、この本を一気呵成に読み進んだ。とにかくランボーと言う人間に対する配慮が行き届いている。基本的なことは、手紙の文面にあるランボーの言葉をして語らしめ、それで足りないところは著者の想像力で補う、と言った具合だ。

その結果著者がたどり着いたものは、詩人としてのランボーと詩を放棄したランボーとの間に、断続よりも連続を認めようとする視点のようである。

「"地獄の季節"の畳みかけるような高い調子から"イリュミナション"の硬く張りつめた散文空間を経て、こういう平静な日常世界を描くランボーへ~その変遷は"沈黙"とはまた別種の"書くこと"の持続を感得させずにおかない」

書かれたもののスタイルはそれぞれ異なっても、書くことに対するランボーの情熱は、生涯持続したという見方である。(写真はアフリカ・ハラルのバナナ園に立つランボー、セルフ・ポートレイト)







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