フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 ヘンリー・ミラーのランボー論


ヘンリー・ミラーにランボー論があるのを知ったのは、ジル・ドゥルーズを通じてであった。ドゥルーズは初期の主要な著作「差異と反復」の中で、ミラーのランボー論を卓越した研究だと褒めていたのだった。そこで、ランボーの熱烈なファンである小生としては、読まないという選択はなかった。早速アマゾンを通じて取り寄せ、読んだ次第。読んでの印象は、いささかがっかりさせらるものではあった。というのも、ミラーといえば、セックスの伝道者としてのイメージが強く、ランボーについてもセックスの視点から解剖してくれると思っていたのが、意外と常識的な立論になっているからだ。

ミラーのランボーに対する感情は、じつに親密なものだ。かれはランボーを、文学上にとどまらず、生き方の手本のように見なしている。ランボーの生き方とか、文学的な感性、それにミラーは決定的に魅せられたということらしい。しかしミラーがランボーを発見したのは、40歳を過ぎた時のことだ。この40歳を過ぎて処女小説を書いた作家が、17歳で酔いどれ船を書いた少年詩人を、自分の模範とうけとるというのは、かなり滑稽というべきだろうが、ミラー本人はランボーとの出会いを天啓のように受け止めているのである。

ミラーはランボーのうちに自分自身の生き姿に近いものを認めた。少年時代から社会に対して反抗的であったこと、口うるさい母親を憎んだこと、やむにやまれぬ気持ちからたびたび放浪を重ねたこと、などに自分と同じ性向を感じ取り、ランボーに惚れ込んだということらしい。

ランボーは、つねに社会から疎外されていたが、かれを疎外したのは同国人とか白人仲間であって、アフリカ人とか東洋人とはそれなりにうまく付き合うことができた。そのことをミラーは次のように書いている。「日本人はやはり残忍かもしれぬ、匈奴はあるいは野蛮かもしれない。だが君に姿格好も似、同じ言葉を話し、同じ着物を着、同じパンを食べていながら、まるで犬のように君を追っ払おうとする、これら悪魔といったら一体なんだろう」(小西茂也訳)。

日本人を残忍だと思うのはミラーの偏見であって、ランボー自身が日本人を残忍だと言った証拠はない。ランボーは放浪先の候補の一つに日本をあげたこともあるから、日本についてそんなに悪い印象は持っていなかったと思う。

ランボーについてのミラーの評価は、詩作の時期と詩作放棄後とを通じて一貫しているようだ。それはランボーを放浪の旅人とみる見方だ。少年時代に歌ったのも放浪についてだった。詩作放棄後死ぬまで、放浪し続けたことはよく知られているとおりである。ミラーはそんなランボーを自分の生き方の手本とするのだが、ランボーのように生涯を放浪のうちに生きたというわけではない。

ミラーは、ランボーと母親との関係に注目し、そこに強いマザー・コンプレックスを認めたようだ。たしかにランボーには、母親への両義的な感情があったことが指摘でき、それがマザー・コンプレックスを想起させるというのは、ありえないことではない。だがミラー自身、母親との間に強い葛藤を抱えていたようで、母親とまともに接することができるようになったのは50歳を過ぎてからだと告白している。五十過ぎてから母親と和解するような男が、37歳で死ぬまで母親との間に親密なコミュニケーションを続けていたらしいランボーに自分を重ねることは、これもまた滑稽なことと言わねばなるまい。

ランボーの詩については、ミラーは大したことは言っていない。その読み方も皮相というべきである。ランボーには強い政治的な関心があり、それがあの「酔いどれ船を」を書かせたというのが、いまではもっとも素直な受け止め方である。あの詩は、パリ・コミューンの挫折を船の難破にたとえたもので、ランボー自身がかかわったコミューンの理想とその挫折を、痛恨をこめて歌い上げたものだ。ミラーの読み方は、これを、せいぜいランボーの反抗心があらわれたものとするもので、そこに政治的な意図はまったく感じ取っていない。きわめて半端な読み方であり、ミラー自身の俗物根性がうかがれるところである。

そんなわけで、折角ドゥルーズを通じて読む気になったミラーのランボー論ではあったが、ランボーを自分自身に重ね合わせることに急で、ランボーその人の内面に踏み込んでいくような迫力は伝わってこない。なお、ドゥルーズがこれを評価したのは、精神分析的にランボーを解剖しようとする姿勢に共鳴したからだと思える。


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