フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 詩作放棄後のランボー


詩作を放棄した後のアルチュール・ランボーの半生の足取りについて、鈴村和成著「ランボー、砂漠を行く」をもとに整理してみた。

1974年 3月頃ジェルマン・ヌーヴォーとともにロンドンに渡り、そこで「イリュミナション」を完成させたと思われる。ヌーヴォーは間もなくフランスに去り、ランボーも年末にはシャルルヴィルに戻る。

1975年 2月13日ドイツのシュトゥットガルトに行き、そこで3月2日に出獄したヴェルレーヌと会う。ランボーはヴェルレーヌに「イリュミナション」の原稿を渡し、ヌーヴォーに送るように依頼する。5月にはイタリアに入り、そこからパロス島に向かうが、途中病気のためにフランスに送還される。この頃、兵役について気にしていた様子がある。このことは死ぬまでランボーの頭を離れなかったようである。この年、妹のヴィタリーが滑膜炎で死ぬ。ランボーがやがてかかる病気との関連性が指摘されている。

1976年 5月ブリュッセルでオランダ植民地部隊に入隊、6月には船でバタヴィアに向かい、8月初めにサラティガの駐屯地に到着するが、すぐに脱走、スコットランドの船に偽名で乗り込みヨーロッパへ、12月シャルルヴィルに戻る

1877年 5月以降、ケルン、ブレーメン、ストックホルム、コペンハーゲンなどを放浪、夏の終わりにいったんシャルルヴィルに戻った後、9月にアレクサンドリアを目指すが、病気で断念

1878年 夏、兄のフレデリックとともにローシュの農園で働く、10月イタリアへ向けて出発し、徒歩でアルプスを超える、この頃父親のフレデリックがディジョンで死す(父フレデリックは家族を顧みず、アルチュールが5歳の時にシャルルヴィルの家にやってきた後は、一度も家に近寄らなかった、妻と折り合いが悪かったと思われる)、11月ジェノアから船でアレクサンドリアに行き、そこでキプロス島の会社と雇用契約を結ぶ、12月キプロス島ポタモスの石切り場で現場監督の仕事に従事

1879年 5月腸チフスにかかりキプロス島を離れてフランスに戻る

1880年 3月キプロス島に舞い戻り、4月にはイギリス総督の官邸を建設する仕事に従事、6月キプロスを去り、ジェッダ、スァキン、マサウア、ホデイダで仕事を探す、8月7日アデンに到着、これ以降ランボーのアラビアとアフリカの生活が始まる(ランボーは死ぬためにマルセーユの病院に行くまで、一度もフランスの地を踏むことはなかった)バルデー商会に雇われ、東アフリカのハラル代理店をまかされることとなり、12月の初めにハラルに到着する(アデンから船に乗ってゼイラーに上陸し、そこからはソマリ砂漠を20日間も馬に乗って横断したと家族あての手紙にある)

1881年 6月半ば、ハラル南方50キロのブバサ村に遠征して象牙や皮革の買い付けをする、12月ハラルを去ってアデンに向かう

1882年 1月アデンに到着、この年はエジプトの民族独立運動の余波がエチオピアにも押し寄せ、ハラルもその混乱にまきこまれる

1883年 3月リヨンに注文していた写真機が届く、ハラルに向け出発(2年契約でハラル支店長となる)5月自画像を含む複数の写真を家族あての書簡に同封する、砂漠のランボーを写した唯一のものである、8月使用人ソティロらからなる調査団をオガディンに派遣する、この調査結果はオガディン報告としてまとめられ、「地理学協会」の機関誌に掲載される、10月~11月、ヴェルレーヌの「呪われた詩人たち」が雑誌に連載され、ランボーは俄に注目を浴びるが、ランボー自身はそのことに全く関心を示さない

1884年 3月ハラルをたち、4月アデン着、

1885年 10月初めバルデーとの契約を解除、ショアの貿易商ラバチュと契約、ヨーロッパから小銃数千丁を買いいれ、それをショアの王メネリックに売り渡す仕事を請け負う、11月アデンからタジュラーに渡り、キャラバンの編成にあたる

1886年 キャラバンの編成に苦労したランボーは、武器輸出の許可を巡ってもトラブルに巻き込まれ、出発が大幅に遅れる、遅れることによって損失も拡大すると手紙の中で愚痴を言っている、そのうちに相棒のラバチュが癌で急死し、その代役を期待したポール・ソレイエも急死したため、ランボーは途方に暮れる、アフリカでの経験が短いランボーには、メネリック相手の商売が成功するかどうか自信がなかったのだ、結局ランボーは40人近いキャラバン隊を率いて単身タジュラーを発つ、ショアのアンコベールまでの道のりは500キロ

1887年 4か月かけてようやくアンコベールに到着、しかしメネリックは新しい首都に定めたエントットに移動していたため、ランボーもその後を追う、3月初めエントットでメネリックと取引、王はランボーの商品を安く買いたたく、この時にメネリックの顧問官イルグと懇意になる、またラバチュの債権者にしつこく付きまとわれる、5月初め探検家のジュール・ボレリとともにエントットを発ち、ショア~ハラルの新しい商業ルートを切り開く、ハラルでメネリック王の振り出した手形を受け取り、アデンに帰着、8月従僕ジャミ・ワダイを伴ってカイロに赴き手形を換金する(ジャミはハラルで飢えていたところをランボーが拾った少年、ランボーの同性愛の対象になっていたようだ)10月初めアデンに戻る

1888年 5月初めハラルに到着(その頃の家族あての書簡には、これから長いことハラルに住むことになりました、とある。ランボーはアデンの貿易商ティアンと提携し、ハラルに取次店を開設して、コーヒーや象牙などを輸出し、衣料や雑貨を輸入する仕事に従事することとした)

1889年 エチオピア皇帝のジョアネスが戦闘で死亡し、ショアのメネリックはその後を継ぐことに意欲を燃やす、そのメネリックがハラルに重税を課すと言って、ランボーはイルグを相手に愚痴をいっている。11月10日メネリックがエチオピア皇帝に即位、12月20日付イルグ宛書簡の中で、ランボーは奴隷少年2人の斡旋を依頼しているが、当時奴隷の売買は厳罰の対象だった

1890年 この年、ランボーはショアのイルグに送った商品の売上代金を清算するよう度々催促する、ティアンとの提携を清算したいとの思惑があったためと思われる、イルグはランボーの商品には買い手がないから清算どころの話ではないと返事している(商品の大部分はシチュー鍋だとイルグは言っている、民衆は肉を食うどころではないのに、シチュー鍋など誰が買うか、というわけである)

1891年 2月20日付の母親あて書簡の中で、病気の苦しさを訴えている。右足に静脈瘤(実際には骨肉腫)ができて、歩行が困難なばかりか、痛みのために毎晩不眠に苦しんでいるという内容だ。3月末、ハラルを引き払うつもりで数日かかって丸損の清算をする、4月7日16人の人足に担がれた担架に横たわってアデンに向かう、その途上のことをランボーはメモに残している、4月18日ゼイラー着、即船に乗ってアデンへ、5月20日マルセーユに着いたランボーはコンセプション病院に入院、5月27日右足の切断手術を受ける、7月にいったんローシュの母親の家に帰ったランボーは、病状が悪化しているにもかかわらず、汽車でマルセーユに向かう(妹のイザベルが付き添っていた)、マルセーユに到着するやコンセプション病院に運ばれる、11月10日死亡、享年37歳、死因は全身癌腫、右足にできた肉腫が全身に転移していたのだった





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