フランス文学と詩の世界
Poesie Francaise traduite vers le Japonais
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 清眞人「新ランボー論」を読むその二


テクストに即してランボーの慈悲愛へのこだわりを指摘する作業はさらに続く。散文「愛の砂漠」、メモ書き「僧衣の下の心」、詩篇「一番高い塔の歌」、散文「福音書にかかわる散文」が次々と解釈を施される。それらの解釈を通じて、ランボーの慈悲愛へのこだわりを深く解明しようというわけだ。

「愛の砂漠 Les Déserts de l’amour 」は、韻文ではなく散文であり、書かれた時期は1872年と推測される。この推測が正しければ、ランボーはすでにヴェルレーヌとの共同生活を体験している。この散文がヴェルレーヌとの関係を念頭に置いたものかどうか、にわかにはわからぬが、清君は、これを「私のくりかえし論じてきた<慈悲愛と性愛欲動との両義的アンビヴァレンツ>でしかあり得ぬ人間における<愛>の経験、それとの少年の出会い、それを物語ることになるのだ」と解釈している。清君が引用しているこの文章の訳者宇佐美斉は、「異性愛への憧れを隠れ蓑にしつつ、実は男色の道へと足を踏み入れて間もない青年の性にかかわる初々しい懊悩を、陰画として刻み込んでいる」と指摘しているのだが、清君はそれを否定して、これはあくまでも異性愛を前提としたランボーの慈悲愛へのこだわりをあらわしたものだと受け取る。

「僧衣の下の心 Un Cœur sous une soutane 」は、イザンバールが所有していたランボーの文章の一つだから、おそらく1870年ころ、つまりランボーがまだ16歳のころに書かれたと推測される。内容は、学校生活を揶揄するテイのもので、ランボーの冷笑的な視線が伝わってくるものである。この文章についても清君は、性愛の契機と慈悲愛の契機の切り離しがたい融合を見ている。

「一番高い塔の歌 Chanson de la plus haute tour 」は、「地獄の一季節」の「錯乱Ⅱ」の中で提示されており、この世に別れをつげる記念として作ったものだと断っている。書かれたのは、「地獄の一季節」の執筆にとりかかる以前、1872年5月のことで、パリのムシュー・ル・プランス街の屋根裏部屋においてである。ランボーの後期詩篇と呼ばれるものの多くがここで書かれた。この詩について清君は、「デリカシーのせいで、俺は人生を失ったのだ」という文句に注目しながら、ランボーの慈悲愛への窮訴、イエスとマリアへの敬愛が結びついた形で現れていると解釈する。つまりランボーは、この世に別れを告げるにあたって、慈悲愛とか聖マリアへの信仰のありがたさを思い知ったというわけであろう。ちなみにランボーが聖マリアに帰依する気持ちになったのは、清君の解釈によれば、厳しいだけの母親への幻滅の反動だったということになる。

「福音書にかかわる散文 Proses évangéliques 」は、「地獄の一季節」の執筆時期と前後して書かれたものと推測される。ランボーはルナンの「イエスの生涯」を読んだらしく、ルナンが理想化しているようなイエス像への反発をこの文章の中に込めていると考えられる。清君が引用している訳者の宇佐美も、「結果としては『福音書』の思想を揶揄し批判する趣旨のテクストへと大きく横滑りしている」と評しているのだが、清君はそうではなく、ランボーがここで取り上げている福音書の文章は、「実はかの『慈悲愛』のメタファーに他ならない」と言って、この文章においてもランボーは、キリスト教への批判ではなく、聖母マリアが体現するキリスト教の信仰のあり方に共鳴していると解釈するのである。

以上が、ランボーに慈悲愛への飢渇を見ようとする清君の、その解釈を支えるためのテクスト分析のあらましである。それらの分析を通じて清君は、ランボーの最大の特徴を、キリスト教的な意味での慈悲愛に飢渇し続け、最後にはその慈悲愛を獲得しようとしてできずに終わった不幸な詩人として見ているようである。ランボーの慈悲愛への飢渇を促したのは、かれの母親であった。この厳格なだけで愛の欠けた母親に、ランボーは痛く失望し、その失望の反動として、聖母マリアに慈悲愛を求めたというわけである。

清君のランボー論のもう一つの柱である「大地母神的宇宙への憧憬」について、次に見てみよう。これについて彼は、散文詩集「イリュミナシオン」に依拠しながら解明している。イリュミナシオンの現行テクストの最後に位置する Génie という文を手掛かりにして大地母神的宇宙の何たるかについて、まず解明するのである。かれはこの文章のタイトルである Génie を「精霊」と訳して受け取ったうえで、その精霊に大地母神的宇宙観の担い手を見るのである。彼はすでに序章のところで、大地母神をギリシャ神話のキュベレと関連付けて論じていたのだが、なぜかそのキュベレを放りなげて、かわりに精霊を持ち込むのである。だが、そこに大きな問題がある。

Génie というフランス語は「天才」という意味であって、宗教的な精霊という意味は基本的には含まない(おとぎ話の妖精という意味はある)。じっさい、この文章はある種の天才への期待を表明したものなのである。ランボーには社会変革への強い期待感があって、その期待感を天才に託すところがあった。彼にとって天才とは、社会変革者、人類の導き手という意味を持たされている。そういった、天才を期待する傾向は、ニーチェの超人の思想と通じるものがある。ニーチェとランボーとの間に何らかの影響関係があったとは考えられないが、天才や超人の出現を期待するという傾向は、時代の窮迫感のもたらしたものと考えることはできる。

そういうことを前提にこの文章を読むと、すとんと腑に落ちるのである。精霊としたのでは、そういうわけにはいかない。精霊では抹香臭くて、社会のダイナミックな変革というイメージとは結びつかないのである。無論ランボーは精霊に言及することもある。その場合には、ちゃんと esprit という言葉を使っている(たとえば、「地獄の一季節」の「悪い血 Mauvais sang 」の中で)。

なお、この「イリュミナシオン」というフランス語のタイトルを、ユニークなランボー研究で知られる寺田透は「着色版画集」と訳している。ヴェルレーヌがフランス語の Illumination は英語の colored plates だと注釈したのに倣ったという。これが版画集だというアイデアは、寺田の文章を読むまで思い浮かばなかった。なお、本論で話題になった Génie という言葉を寺田は、無論「天才」と訳している。

ランボーにおける慈悲愛への希求と大地母神的宇宙観への憧憬について語った後、清君は、ランボーとヴェルレーヌとの関係について一章をあてて解釈する。この二人の関係を清君は、似た者同士がひかれあったというふうに受け止めている。「『狼狂症の臭気』を放つヴェルレーヌが、同じ臭気を放つ唯一なる仲間・同志・恋人としてランボーを発見」し、ランボーもまた、「自分たちの絆がそのような『唯一なる』相互承認と支え合いの絆であることを自覚した」というのである。

この二人の関係は、生き方についての共感にとどまらず、創作の上でもつながりがあると清君は見ているようである。二人のつながりの絆となるものを彼は高踏派に求めている。Voyan について語ったポール・ドゥムニーあての手紙の中で、ランボーがヴェルレーヌを高踏派の詩人として位置付けていること、またランボー自身も、初期の詩篇「太陽と肉体 Soleil et chair 」で高踏派への共感を表明しているといったことがその理由らしい。しかし、「太陽と肉体」は、当時高踏派を自認していたテオフィル・ド・バンヴィルに読んでもらうために書いたものだ。バンヴィルらの高踏派は、言葉通りギリシャかぶれを意味していたから、ランボーはそのギリシャかぶれに迎合して、詩の中でギリシャを礼賛してみせただけで、かれの茶目っ気の現れた作品といってよい。だからその詩を以て、ランボーが高踏派に共感していたとは言えないし、したがって高踏派がランボーとヴェルレーヌを結びつける創作上の絆というのも言い過ぎである。

清君はまた、ランボーの慈悲愛への希求がヴェルレーヌの宗教心と共鳴していたとも考えているようだが、これも考えすぎだと思う。ランボーには宗教心など指摘できない。死ぬ間際にカトリックの儀式を受け入れたことは確かだが、それはかれが母や妹に完全に依存した状態だったからである。片脚を切られて、しかも死に直面していたランボーには母や妹の支えが必要だった。そんな状態で、妹から繰り返し信仰をすすめられ、それを無碍にはねつけるわけにはいかなかったのである。ヴェルレーヌ自身の信仰は確かなようである。そんなヴェルレーヌをランボーはロヨラと呼んで軽蔑することはあっても、ヴェルレースの信仰を理解することはなかった。

以下続く


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